2009年03月31日

嘉手久

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posted by 小太郎 at 17:47| Comment(0) | 弾いてみたい定番の民謡曲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

三線の歴史

 中国・日本・琉球の士族階層の特徴を表現する場合、床の間の飾りを例にあげて説明することがあります。中国の床の間には硯と墨と筆を置き、日本では刀かけに大小二振りの刀を大事に飾る風習があった。
 沖縄では床には三線二丁一対のものを三線箱に入れて飾っていた。これは飾り三線と呼んでいます。
 そこの主人が歌舞芸能に理解のある印であり、生活のゆとりを示していたともいわれています。昔は蛇皮は高価で胴に渋紙を張ったものが多く、蛇皮張りの三線がある家は経済的にゆとりのある印にたとえられていたようです。
 沖縄では人が破産した場合、先ず不動産を売り、次に大切な墓を売り、最後に家伝の三線を売るというのが多いパターンだそうです。
 沖縄の作家、大城立裕さんは、床飾りの刀と三線を「武士道」を誇りにする文化と「やさしさ」を誇りにする違いであると述べています。これは、武器を持たず、三線音楽に愛着を持ち、平和を求める沖縄文化を言い当てた言葉と思われます.

 三線がいつ沖縄に伝来されたのかは明確には定かではありません。14〜15世紀頃中国から伝わったといわれています。

中国から伝来した三線は琉球、沖縄で長い年月の間に工夫と改良が加えられて琉球音楽の主要楽器となり沖縄の音楽を一変させました。

琉球王府が三線の改良に力をいれて17世紀初頭には三線主取(ヌシドリ)という役職までおいていたそうです。

王府の強力なバックアップのもとで、多くの名工が生まれて生み出せれた名器は宮廷楽器として丁重に扱われたということです。

それが後に民間のウチナンチュが家宝として床の間に飾られた由縁なのでしょう。

 

 

沖縄本島の士族層を中心に芸能音楽として洗練された「古典」と呼ばれる歌曲、これを基にして曲節別の歌曲集が幾つも編集され、その曲を主に三部立てにして、これも現在「古典」とよばれる舞踊が生まれています。

さらにこの舞踊を繰り込みながら物語(劇)を展開する「組踊り」が生まれるのです。やがて民間でも三線(サンシン)が用いられるようになって、夜な夜な未婚の男女が野外で交歓するモーアシビ(毛遊び)の掛け合い歌に、七月のエイサーや八月の村踊り(七月の所も九月の所もある)など芸能を提供する場では必ず三線の音色が聞かれました。奄美地方の八月踊り、八重山の結願や盆、プーリ(穂利)など晴れのひにはここでも三線は重要な楽器でした。

しかし、この三線は沖縄においては単なる楽器以上の意味を持っています。楽器であるとともに楽器以上の存在なのです。楽器以上の存在ということについてはあとにして。



 始めに三線の名器について・・・三線の名器中の名器をケージョー(開鐘)と呼んでいます。そのケージョーの中でも尚王家の五つのケージョーがもっとも優れていると言われています。

1916年(大正5年)4月17日の琉球新報(沖縄の地元新聞)の記事にこの五開鐘について次のように報じられています。

『五開鐘と云ふのは何れも沖縄に於ける斯界の第一人者、真壁里之子の作であるが、尚穆王の御代御茶屋に真壁作の三味線を集めて弾き比べをした処が、九つとなり八つになり夜が更けるに従って大抵の物は音色が悪くなる。独り夜が更けるに従って音が衰えないのみか暁を告げる開鐘が山々を伝はって響き渡るやうになっても、いやが上にも美しい音を出したのが五梃ある。そこでその五梃が真壁の作での優秀な物と定まって孰れも徽章を授けられた。五梃と言ふのはその五梃を指するのである。此の五開鐘の中でも音の荘重なのがあり、軽快なものがあり、それぞれ特色があるが、盛島開鐘が五開鐘中の首座とされて居る。今度陳列されたのは盛島、西平、湧川、熱田、翁長の五開鐘中の盛島、西平、熱田の三開鐘である』



ところが、山内盛彬氏はその著「琉球の音楽芸能史」で五開鐘を盛島開鐘、城(ぐすく)開鐘、湧川開鐘、西平開鐘、アマダンジャ開鐘としています。共通しているのは盛島、湧川、西平の三開鐘だけで後の二つは異なっています。池宮喜輝氏は戦後の五開鐘といって戦前の五開鐘のうち残った西平開鐘、湧川開鐘に翁長開鐘、志多伯開鐘、金武(屋良部崎開鐘)と加えて五開鐘としています。(「琉球三味線宝鑑」1952年)。



また、又吉真三氏は山内氏が挙げた五開鐘を示した上で「一説では」として湧川、西平の代わりに久田開鐘と大宜味開鐘を挙げています(「沖縄大百科事典」)。ただ久田、大宜味両開鐘じたい、まだ存在が確認されていません。五開鐘という括りにもこのように揺れがあることがわかります。

先の琉球新報の記事にもあるように開鐘は選ばれた名器でした。暁を告げる鐘が鳴るまで弾き比べて選りすぐった名器だったのです。山内氏の前掲書にも次のような逸話が紹介されています。

『昔、ある王が昼寝をしていると臣下の者がヲゥージル(男弦・第一弦)を軽くテンテンと弾いていると王が目を覚まして「今開鐘が鳴ったようだが」と言った。臣下の者は「いえ、開鐘が鳴る時刻ではありません。この音ではありませんか?」と答えて、もう一度三線を弾くと王は大きく頷いた。以来三線の名器を開鐘というようになった。

また一説に、尚穆王のころ多数の三線を御茶屋御殿で弾き比べたことがあったが夜が更けるにつれて、この五開鐘は暁を告げる開鐘が鳴るころには、いよいよ音色冴えて梵鐘にも劣らぬ名器が選別され「開鐘」と名付けられた。これが尚家の五開鐘の起こりである」・・・。

と概略このように述べています。後段の御茶屋御殿での選別の件は新聞の記事とも重なっています。「一説には」というのは、あるいはこの新聞の記事を参考にしたということかもしれません。

その他、暁の鐘つまり開静または開暁(いずれも、かいじゃう、ケージョーと読みます)を告げる鐘に由来しているのはおもしろいです。

首里城や城下の例えば国学などは明け六つ、つまり開鐘に時鐘が鳴り、開門されます。この「開門」の「門」を琉球語でジョー、「かい」はケーと発音されるので、まさにこの時鐘はケージョーなのです。



三線文化

 琉球ではいわゆる芸能者は発達しませんでした。三線は原則として士族のそれも男子の嗜みにすぎなかったからです。

 特に儒教の深化とも対応して、一般の士族は教養の一環として熱中しない程度に嗜んだのでしょう。王府の儀礼も中国や本土の例を参考にしつつ、古琉球以来の伝統を整理して、中国の音楽や琉球音楽が式楽として使われるようになります。これは、日本本土の芸能者が古来ほがいびとの系譜を引いてたえず蔑視されていたのと対照的です。

 それに対して琉球では芸能者は士族でした。士族が演じ士族が鑑賞する、いわば「高級」な芸能だったのです。でも、士族の芸能ですからその到達にも限界がありました。



三線は絃と棹と胴からできています。ところが棹だけがもっとも珍重されるのは、沖縄三線の特色です。音楽を決定する大部分の要素は、胴にあるはずです。

棹の長さは平均78センチ前後、のプラスマイナス2センチに納まります。長さは変化の幅が狭いのです。ところが、重さは、久場春殿型クルチの880グラムを最高に、小さいのでは真壁型ユシギの270グラム、与那型ユシギの290グラム、298グラムの南風原型クルチが続きます。久場春殿型は真壁型に対して3、2倍の重さです。

沖縄では本土の三味線をヤマトゥサンシンといってその棹の長さに注目しますが、地歌、長唄、義太夫、清元、常盤津、京三味線、新内、小唄などで、それぞれ長さや太さ糸掛けなど微妙に異なっています。個別的にではなく流派によって相違がみられるのです。歌の表現に適した楽器を追求しているのです。「三味線独稽古」に「歌三味線の棹はほそく、上るり三味線の棹のふときを是とす」とあるように、歌物には、三味線も細く振動させて表現力を増しているのです。

これに対して、三線は、250曲の古典曲のうち、どの型の三線がどのような曲に適当かといった考えや試みはみられません。にもかかわらず棹のこうした重量差、大小はどうして起こるのでしょう。

三線は、南風原―知念大工―久場春殿―真壁―平仲知念―与那城と、型の変化があったといわれています。しかし南風原型を克服して知念型が登場したのではありません。また用途別にそれらの型が選ばれているわけでもありません。縦の時間軸のこれらの三線が、なぜ今も作られ続けているのか、これも不思議で、単なる楽器論では理解されない理由の一つです。



三線の棹に対する熱い思い入れは、他にも多くの特異な取扱を生じています。先ず継ぎ棹がないことです。本土では芸能者が多く漂泊していたためでしょうか、早くから三味線を三本に切って移動に便利なようにしていました。沖縄の三線にはこうした継ぎ棹がまったくありません。沖縄の人にとっては、大切な三線を切ることなど思い及ばないのです。音が変わるから駄目だという人もいますが、それでは本土の三味線の説明がつきません。
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posted by 小太郎 at 17:42| Comment(1) | 三線の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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